2015/10/01

失神論

 真っ白い無意識下の、どこか遠くの方で、ぼんやりと、ただの感覚が芽生える。

 (あれ、なんか体が痛い…)

 頭の中の白い霧が徐々に薄くなり、周りの景色が見えてくる。
部屋の見慣れた光景。でもここは夢の中なのだろうか?浮遊感がある。

 そして自分が後頭部だけを壁に付けて首を起こし、だらしなく仰向けになっている事に気が付いた。

 (体が痛い)

 所々が痛む。なぜだろう?

 だんだんと時間という概念がはっきりしてきたので、ゆっくりと記憶を辿ってみる。

 自分は確か部屋で本を読んでいた。そろそろ暗くなってきたから電気をつけようと立ち上がった時だ。
目眩がしてよろけ、そのまま何歩か後ずさりして壁に激突し、寄りかかったままズルズルとズリ落ちながら意識を失ったのだ。

 いわゆる立ちくらみである。
もともと貧血気味なので立ちくらみはよくある事だし、更にそのまま気を失う事もたまにある。
ああそうか、それで倒れたのか、と、やっと現実に戻り、痛む節々をさすりながら起き上がる。

 どのくらいの間、意識を失っていたのかは分からない。部屋はもうすっかり薄暗くなっていた。
気絶している時というのは眠っている時と違って夢も見ないし目が覚めても時間がどれくらい経過していたかなどの感覚が全くない。
その時間は「無」であり、何も意識がないのに体だけは呼吸して心臓も動いているので幽体離脱に近い状態なのかもしれない。他にない独特の感覚である。

 立ちくらみばかりではない。
座ったままでも、病院で血液検査のための採血中、しばらくすると目眩がし看護師に不調を訴えようとしたらガクンと首が倒れて、その時に両脇を抱えられたところまでは憶えているのだが、次に目が覚めるといつの間にかベッドの上で、どうやら車椅子に移されて処置室まで運ばれたらしいが、腕には血圧計と指の先に血中酸素濃度を測る器具が装着され、管の先では重々しい機械が無機質な音を立てて働いていた。

 一気にシリンダー6本分の血を抜き取られたからなのと、あとは注射恐怖症なのでおそらく精神的な要因もあったのだろう、血圧の数値が30台まで低下していたのだった。

 「次からは寝たまま採血しましょう」と看護師に言われる。

 貧血とは関係ない時もあった。
プールで背泳ぎをしていた時、長年水泳をやっていたので大抵は慣れているのだがこの時はターンの際のタッチのタイミングに失敗し、手ではなく頭から思いきりぶつかったのだ。

 ゴン、という鈍い音がして、ゴボゴボッ、と言って沈み、意識がカットアウトした。

 多分この時は気を失っていたのはほんの数秒だったのであろう、パッと目が覚めるとプールの底に沈んだままだった。本能からか、とっさに水中でジタバタともがいて、パニックになりながらもきちんと立ち上がれた。
人は水の中でも気絶できるのだ。呼吸はしてるはずなのに水を飲み込まないのが不思議である。

 そして人は生牡蠣を食べても意識を失うのである。
一度だけ牡蠣にあたった事があり、気持ち悪くなって横になっていたのだが、その日どうしても出掛けなきゃいけなくてシャワーを浴びた。

 知らなかったのだ。牡蠣などにあたった時は体を温めると余計に毒素が身体中に廻るという事を。

 猛烈に気持ち悪くなり、ユニットバスの中に座り込んで静かに気を失った。

 もう夢か現実かも判らないくらい朦朧としながら目を開ける。頭上からはずっとシャワーのお湯が妙にきらめいて降り注いでいた。

 「吐かなければ、死ぬ」
固くそう思った。これも本能だろう。

 喉の奥に無理やり指を突っ込んで嘔吐する。
今、自分、頭の上からシャワー浴びながら口からのゲロも体に浴びてて、なんか笑える…!上も下もシャワー!みたいな、と、人間、切羽詰まっていても馬鹿馬鹿しい事は考えられるようだ。

 しかしその時の僕はきっと瀕死のニワトリのような、壮絶な形相でゲロを吐いていたに違いない。
胃の中の物をすっかり出し、しばらく休んでから不調を引きずりつつも出掛けたのだから大したものである。
しかしそれからというもの生牡蠣を目の前にするとあの時の様子が瞬時にフラッシュバックするようになってしまった。
そして、戸惑った挙げ句、賭けのような気分でけっきょく食べるんだけど。

 こうしてみると僕は今までの人生でそこそこ失神している方なのかもしれない。
フッと意識が遠退き、スッと還ってくる瞬間。それまでの間は明らかに現実世界とは違う法則で魂は過ごしている。

 神を失うと書いて、失神。

 意識を失っている間は神にも見放されているのだろうか?

 しかしそもそも僕には神様がいない。