よく酒の席や打ち解けた仲間内での軽い性的エピソードとして「SとMどっち?」なんて話題が出る事は多々あり、そうすると「SとMは表裏一体で根源的には同じである」と説いて、SはMの欲しがる事を機敏に察知して実行し、Mはそれを巧妙にSに実行させるワケだから「SはServant(召し使い)のSで、MはMaster(主人)のMである」なんてややこしい事を言い出す輩が必ず現れたりするもんだけど(俺だよ、俺、俺!)、じゃあ自分は一体どっちなんだと考えてみると、これがSなのである。
もちろんサディズムとマゾヒズムのどちらの要素も持ち併せているし、普段の生活でどちらかが顕著に見えるタイプでもないのだが、深層ではサディストであるという確信がある。その理由とは。
小学生時代に遡る。
ランドセルを並べて友達と下校中、皆で戯れながら歩いていると道端に一匹の芋虫がいた。
何かの幼虫であろう、ずんぐりとした体躯の愚かそうな芋虫。
僕は芋虫が嫌いだ。醜くて気持ち悪くて、とにかく生理的に苦手なのである。
しかし友達とそれを発見した時、ふざけてテンションが上がっていたのと少年特有の残虐性からだろうか、何を思ったのか僕はその芋虫を無惨に踏んづけて殺した。
その瞬間、
踏み殺した芋虫に触れている靴の爪先から脚を這い上がって心臓の辺りまで電流が走ったのである。
電流のように激しい衝撃を伴った快感が。
大嫌いな、愚鈍で醜い者を殺した時の快感。
今でも憶えている稲妻のような快感。
オシッコが漏れるかと思った。
それから大人になり色々な経験を積んでもあの時ほどの快感には出会えていない。
大人になった今、もう芋虫を踏み殺したぐらいではあの快感は訪れないであろう。
だから僕は日々を鬱々と過ごしているのだ。あの時ほどの快楽物質・脳内麻薬が分泌されないから。
そしてSとMは表裏一体。
僕が「死にたい」と思うのは、もしかしたら実は「誰かを殺したい」なのかもしれないと最近気付いた。醜くて愚鈍な誰かを。
そういえば昔から変な癖があった。街で見かけた赤の他人の、その人に相応しい死に方を想像する癖。
言い換えれば脳内殺人である。
その殺人癖できっとほんの僅かに自分を満たしていたのではなかろうか?
生理的嫌悪感を抱いてしまう人間から何かしら害を被った場合にいきなりキレて罵声を浴びせたり暴力的になったりする事もしばしばあり、自分でも何かのスイッチが入ったなという自覚があった。
人間も動物なので他の動物に見られる残虐性も持っているし本能でもあるのだけど(だから人間として未熟で動物に近い幼児の方が簡単に虫の脚をもいだりする)、理性や法律に縛られて生きているので利害や私怨などではない純粋な快楽としての殺人の欲求があってもそれを実行に移す事は普通の人間ならまずない。
しかしその一線を越えてしまう人間も少なくはないのだ。
もしかしたら自分はそっち側なのでは?という疑念と、もしそうならそこまでしないと満ち足りる事が出来ないのかという悲しさ。そうでもしないと埋められない何か。
そして多くの快楽殺人鬼がそうであるように、一度その快感を味わってしまうと更なる高みを目指して殺人を繰り返す事になるという恐怖。
ありがたい事に今のところ僕はそうならずに済んでいるけど、その代わりに自分の中のサディズムの牙が自分自身に向き、自らを喰い殺そうとしている。
それはそれで悲しい事だけど他人様に迷惑がかかるよりは何倍もマシである。
だから僕はあの時の芋虫に感謝しなけらばならない。
もしかしたら美しい蝶になっていたかもしれないあの芋虫の命と引き換えに、快楽の恐ろしさとそれを抑制出来る理性を学んだのだから。