2017/03/08

美人でごめんなさい

 オッサンなのにメイクをすると美人になり「美人すぎるオッサン」の異名を持つほどで、メイクした顔しか知らない人にはよく「スッピンでもイケメンでしょ?」と言われるのだが、皆様ご存知の通り、木彫りのような煮干しのような顔で決してイケメンの部類ではない。

 ではなぜそんな干からびた顔の人間が美人になれるのか?

 絵画、中でも人物画が得意だし、もともと人間の顔にすごく興味があって街で知らない人の顔でもジロジロ見続けられる不躾な神経を持ってるからこそ、美しい顔やそうでない顔のバランスを知っていて、なおかつそれを自分の顔をキャンバスにして描く事が出来るというだけなのだ。
簡潔に言えば、観察力とそれを体現する技術力。

 これは何もメイクだけでなく他の分野でも共通する事だとは思うけど、メイクはほぼデッサンのようなもので、デッサンの基本はまず対象物をとことん観察する、これに尽きるのだが、手を動かす事に一生懸命になり観察がおろそかになって自分の顔を客観視出来ていないメイク顔の女子が巷に溢れているのを見るととても残念に思う。

 綺麗になるためにメイクしてんのにスッピンよりブスになってて何か意味あんの??…と。
ミランダ・カーに憧れてダンプカーとは、コレ如何に。

 そんなん元の顔が違うんだから仕方ないじゃん!というのはもちろんそれはそうなんだけど、僕だって煮干しだし、骨格など動かせない部分はあっても正しい観察と技術があればスッピンより美しくなれるし、そうじゃなきゃスッピンの方がいいんじゃね?っていう。

 美というのは時代や流行、そしていまだに国や文化によっても違い、ましてそれが自分の顔に合うとは限らない。
けっきょくは自分の顔に合った美を見つけるしかないのだ。
いくら垂れ気味で太めの眉が流行だとしても、自分の骨格に全く合わない部分にそんな眉を描いても滑稽なだけで、実際そんな滑稽な顔で平気で外を歩いてる人を見ると、大したもんだと逆に感心してしまう。

 「自分の顔なりの美しさ」を観察によって見つけていかないと、流行に振り回されあちこちに眉やチークを移動させながらいつの時代も何だかヘンテコな顔で生きる事になる。
そうならないためには自分の顔の良い所、美しい所、普遍的な所を探して、それがたとえ流行に逆らっていてもその良さを伸ばしていくしかない。

 煮干しにだって良い所はある。
出汁は出るしカルシウムも豊富。
そうした煮干しの良さを活かさないで無理に煮干しを寿司にしたって「何コレ?」と嘲笑われるだけなのだ。

 昨今の女子の顔を見ると、目元だけはやたら描いたり貼り付けたりしてるけど、顔全体の陰影には全く無頓着なパターンが非常に多い。
アイラインを引くよりも各部位に正しくシェーディングを施した方がよっぽど美人になれるのにな~と美人すぎるオッサンは思うのだが、それを知っているか知っていないかの差が美人かそうでないかを作るので、そこは敢えて教えずに優越感に浸るのが美人の選択肢。

 「美人」は努力であり、その努力を簡単に放棄して「カワイイ」に逃げ、それでもダメなら「おもしろ」に逃げる日本の女子達。
でもそれはおそらく根底に周りと同調しなければいけないという強迫観念があるんだと思う。
皆と同じ場所に同じ眉を描かなきゃ!という謎の観念が。顔なんてみんな違うのに。
そうして「量産型中途半端ブス」になる事が幸せならば別にいいんですけども。

 だからこそ美人は孤高なのだ。
美人の近寄りがたさは、そんなところにあるのかもしれない。

 しかし美人にもデメリットはあるもので、先日、メイクした美人すぎるオッサンがそのままコンビニで買い物したら店員のオッサンがやたらと親切で、まあそれは別にいいんだけど、お釣りを渡す時に両手でこちらの手を包み込むようにギュッと握って、ちょっとさすりながらニコッと微笑まれた時にはさすがに気持ち悪くて鳥肌がゾッと立ったね。

 ああ、世の中の女性達は普段こんな嫌な思いもしてるんだなぁ…って思った。

 え、そんな思いした事ないの?
あ、美人にしか解らない愚痴だったかも!
悪気はないんだけど、美人でごめんなさいね~!

 しかしオッサンがオッサンの手を握ったところで何も生まれるはずもなく、美人すぎるオッサンは美人らしく尖った冷たい軽蔑の眼差しを一瞥くれてやり、そのままコンビニ飯をモソモソと喰うのであった。