2014/01/14

他人の夢の話ほどつまらないものはない。

 僕は眠りが浅いせいかよく夢を見る。
夢の中で走る時はなぜかいつも四つん這いで、まるでチーターのように飛びっきり速い。
その疾走感の爽やかさと、手足の指でシッカリと地面を掴んでは後方に蹴る感覚がとても心地良く、「走る」という原始的な悦びを体中で溢れんばかりに感じている。

 しかし現実は走るのが苦手どころかむしろ嫌いで、なぜかというと疲れるから。ジョギングとかする人は何が楽しいのか全然解らない。
走るくらいなら悠々と歩いて平気で遅刻するような人間がどうして夢の中では楽しく疾走する事が出来るのだろうか?

 夢については僕が言うまでもなく謎が多く、記憶という情報の処理だという説が一般的だとは思うけど、今までの僕の人生で四つん這いだったのは赤ちゃんの時とそういうプレイをしてる時くらいで、どちらもせいぜい四足歩行止まりのスピード感のないものだから、すなわち僕には四つん這いで疾走した経験がないのでそんな記憶を持ち合わせているはずがないのだ。

 するとここで出てくるのは、日本三大奇書の一つである夢野久作の傑作小説『ドグラ・マグラ』の「胎児の夢」の章に見る、人類が人類になるまでの壮大な記憶、つまり地球が誕生して海が出来た時に生まれた微生物から、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類と進化し続けて、類人猿を経て人間となった後も何世代もの途方もないモデルチェンジを繰り返して、祖父母、父母、そしてやっと自分に受け継がれたDNAの記憶が、産まれてから学習した経験や記憶と一緒に再現されているという説
だから夢の中では自分の姿のまま空を飛べたり深海に潜ったりも出来るのだ。

 これは単に小説の中の話だけでなく、実際にこの説を唱えてる学者もいる。
解剖学者の三木成夫氏もその一人で、彼はバイブルとして「胎児の夢」の章をいつも胸ポケットに入れていたそうだ。
その中に書かれている生物の進化と胎児の成長の酷似、つまり最初は単細胞生物から分裂を繰り返し、魚のように尾が生え、やがて手足が生えて尾が消え、人間の形になっていくその過程を胎児は自ら体現しているという事実を解剖学的に考察している。
(余談だが三木成夫氏いわく、形態学的に見て人間の顔は脱肛と同じだそうだ。入口か出口かの違いなだけですね!)

 話が遠回りしてしまったけど、以上を踏まえると僕はかつて四足で暮らす駿足の動物だった可能性があり、その時の走る快感が四つん這いでプレイしている時の快楽と混ざり合って夢に現れたのかもしれない。

 という事を黙々と考えているだけのつまらない夢で目が醒めました。 
おはようございます。