最近つねに死について考えてしまう。
考えるというより、もう無意識に、目が覚めた時からその事に想いを巡らせている。
死にたい、という感情。
正しくは「死にたい」という積極性ではなく、「生きていたくない」「生きているべきではない」「生きるのが面倒」という消極的で厭世的な理由からの死の概念。
理由はどうであれ、じゃあとっとと死ねばいいんだろうけど、普通に死が怖かったり親兄弟の事を考えたりという人並みの感情も持ち合わせているからタチが悪い。
死を決断実行出来る何か強大な出来事でもあれば別なんだろうけど、それすらない。
その恐怖心ゆえ具体的な自殺未遂にまでも至らない、ただぼんやりといつも死にたいと思っているまるで太宰治の小説の登場人物のように優柔不断で卑屈な、ただ鬱陶しいだけの腑抜け。
これぞ他人の笑い物になり得る、格好のネタである。
大体今時、死んでもfacebookで「いいね!」と付けられるか、「R.I.P.」なんて軽く言われてお終い。
人の死なんてどんどん軽くなってきている。
そもそも我々は、一方で餓死していく子供達が居るのを知りながら面白半分に暴飲暴食してゲロまで吐いたり出来る神経の持ち主なんだから。
とはいえ、僕のペシミズムにもきちんと苦しみが伴っているのが厄介で、何をしていても24時間死にたくて胸が痛み、いつも悲しく麻酔のように全身が痺れて倦怠感で何もする気が起きない。
こうして体に影響が出ている以上はどうにか打破したいものだが、底なし沼のように暗く澱んだ死の影はいつもどんな隙間からも入り込み、あっという間に全身を支配してしまう。
ただその恐怖に怯えて毛布をかぶって眠る日々。
これを終わらせるには、やっぱり死ぬしかないのかなと思う。
生きる方に目を向けてみても、ほんの少しばかりの才能も世に出るほどでもなく、将来性も貯金もなし、せめてルックスでも良ければちょっとは楽しいかもだけどそうに非ず、誰かを愛する事も愛される事もなく、恋愛・仕事・金運といったよくある占い項目全てにおいて幸せを感じる事もなく、この先、生きてて一体何が楽しいのか?という有り様。
それでもみんな各々に努力をしたり適度に流行に踊らされたりしながら楽しく生きているというのに。
要するに僕は極度の面倒くさがりなのだ。
今まで生きるための努力や面倒ときちんと向き合わず、ただ楽しい方へ楽しい方へとフラフラ生きていたのでそのツケが全て回って来たのだ。今ある苦しみは過去に逃げてきた苦しみ。
しかしこれがまた、あまりに面倒くさがりなので死ぬ際においても、あぁ部屋の片付けしないと死んだ後恥ずかしいなとか、いちおう遺書も書かなきゃなとか、誰と誰には挨拶しとこうかなとか、どの自殺方法がいちばん痛くなくて他人に迷惑がかからないかなとか、具体的な事を考え出すともう面倒くさくて仕方ない。
そんな事考えずにポーンと死ねたらいいのだが、変に律儀というか諸々考えては辟易してしまう。
そんな面倒くさがりのために今のところこうして生きてしまっている。
今後この面倒くささが生と死のどちらに傾くかは自分でもわからない。どちらを選択すればいいかもわからない。この問題をどう処理していいかわからない。
シェイクスピアはいい事言うね。
「生きるべきか 死ぬべきか それが問題だ。」
その問題についていくら悩もうが実際に死んでしまおうが他人からすれば面白可笑しいだけの話で、所詮「悲劇」も娯楽なのだ。
なのでこうしてブログにでも書いてせいぜい嘲笑われるのが丁度良い。