例えば3時間の芝居を観る。舞台上で進行する物語や登場人物の関係性を追いながら楽しく観劇しても、さすがに3時間は長いなと思うし実際途中で休憩が挟まれる事がほとんどだろう。
映画だって3時間は長尺だ。
国立新美術館のマグリット展、気が付けば3時間かけて見ていた。絵画展は自分が動きながら見るからだろうか、時間の長さは全く感じず。
展示自体は3月から始まっていたんだけど、独りだといつでも行けるし期間も長いからとズルズル先延ばしにしてたらいつの間にか終了しててどっぷり後悔…という事がよくあるので、今回は人を誘って。
津田修平くん。今年春に客演したOi-SCALEという劇団の舞台で知り合った、一回りほど年下の役者さん。
なぜ彼を誘ったかというと、僕の演劇活動のホームであるロリータ男爵という劇団のミーティングで、出演して欲しい人の話をしてた時にふと思い浮かんで検索したらブログがあったので、通常若い子のブログなんてチャラチャラ・ヘラヘラ・スカスカでちっとも面白くない事が多いんだけど、津田くんのブログは文章を好きな人の文章で、読み物としてきちんと読めたので遡って読んでたらマグリット展に行ったけどもう一度行きたいという記事発見。
じゃあ行こうぜ!と突如連絡を入れ忙しい中で付き合ってもらったのだった。
修平&雲平の平平コンビ、津田くんも僕と同じくらい小柄なので、ちっちゃい青年とちっちゃいおっさんの六本木珍道中。
津田くんはマグリットの絵を心の故郷と呼ぶほど好きだそうで、一方僕はもちろん有名な数点は知ってたけど特に詳しいワケでもなく直感的に好きなだけだったけど、今回の展示でマグリット自身の歴史と移り変わりも知れて、一人の人物としてのマグリットも浮き上がってきた。
シュルレアリスム全盛期の作家達の派閥や戦争の影響など、けっこうギスギスした環境を過ごしていて一時はヤケクソになってわざと筆を荒くしていたり、でもそういうのを経験するたびに画風は更に自由に緻密に滑らかになっていく。
オフトーンでまとめられた空や海、浮かぶ岩や人物、一見フワッとして楽しげなような気もするけどどれもどこか憂いがあって。
静かな絵なんだけど雄弁で。
以前やはり展示を見て衝撃的だったフランシス・ベーコンの絵のように胸を掻きむしられるような残酷な攻撃性はないものの、確かな存在感と、絵とそれを見る人との間に対峙が生まれる、そんな絵。
眺めていると、ぼんやりとした郷愁のような不思議な感覚に捕らわれる。寂しいけど心地よいような。
こういう"不思議ちゃん"な絵というのは、実はとてもテクニックが要ると思う。
見た人に「不思議だ」と思わせるためには構図の工夫やモチーフの配置などのバランス感覚、写実性や説得力も必要だからだ。
マグリットの場合、シュルレアリスムの一つの手法としての、物体と物体の関連性に意外性を持たすという事ももちろんやってるんだけど、例えばそういうコラージュ的な事って現代ではフォトショップでの合成などで簡単に出来るけど、もしCGでマグリットの絵と同じ物を作ってもそれほどの感慨はないだろう。
絵だからこそ面白くて不思議な力があって、筆致の暖かさが独特の情緒を生み出す。
絵画を生で見る時の醍醐味として筆遣いが見られるというのがある。油絵だと特に顕著で興味深い。
昔ミラノに行った時、美術館や教会を巡ってそれこそルネサンス絵画がその辺にゴロゴロ転がってるんだけど(実際の展示もガラスケースなんかには入ってなくて剥き出しで柵なんかもなく触ろうと思えば触れる。)、遠目で見たら繊細な肖像画も近くで見たらけっこう大味な筆遣いだったりですごく面白かった。
マグリットの筆遣いはとても滑らかで、僕は特に影の入れ方が好きだった。
影って物の立体感や距離感を出す物理的な役割もあるけど、マグリットの場合は影というその曖昧な、実体だけど虚像である物に精神的意味も持たせているように感じた。
あとは色味がとても好き。灰色がかってくすんではいるけれど透明感があってオシャレな色使い。
実際グッズになっても映える現代的センスで、美術展恒例の土産コーナーもなかなかシャレたグッズで溢れてたよ。
あと個人的に裸婦を描いていたのが意外で、奥さんをモデルにしたシリーズがあるんだけど、全体の青みの中でハイライトにうっすらピンクを入れてて、その具合がすごく綺麗でとても良かった。
ダリなんかもそうだけど、お気に入りのモチーフを繰り返し登場させていたり、時期によってお気に入りのモチーフが違ったり。
最後までお気に入りだったのはどうやら馬用の鈴みたいだ。
飾り穴の付いたパネルをモチーフに描いてる時期もあって、宮沢りえのサンタフェ思い出すよね~!なんて言ったら津田くんはサンタフェ知らなかった…。コレがジェネレーションギャップ!
そんなこんなでたっぷり3時間マグリットを堪能。
いちばんラストには遺作なのか木炭で描きかけの男性像。消された顔の部分がうっすら残ってたんだけど、何やらにこやかな可愛らしい顔に見えて印象的だった。
その後は飯でも食っか~!という事で新宿に移動してご飯食べながらいっぱい喋った。
津田くんは文武両道、生徒会長をやってて、早稲田大学卒、数学のテストで88点を取った時には「こんな悪い点数を取るなんて…!」と悔しくて泣きながら答案用紙を破ったくらいの秀才くん。
一方僕はといえば勉強嫌いのスポーツ嫌い、外を歩けば職質されて、大学なんて行った事もなく(忍び込んだ事はある)、数学なんてテストで1点を取っても「あ、0点じゃなかった~♪」と喜ぶ始末。(しかもその1点というのは「これを( )と呼ぶ」という文章問題で、カッコ内に「二次方程式」と入れればよいものだから実質的には0点なのだが。)
そんな対照的な2人が並べば端から見ればカツアゲの図でしかないし、実際舞台の稽古場で初めて会った時には僕の事を怖がって目も合わせてくれなかったくらいで(後から知った事だがOi-SCALE主宰の林くんが皆に僕の事を怖い人だと触れ回っていたらしい。林くんとは10年来の仲なのでそんな冗談も解るけど、営業妨害だっつ~の!(笑))、一体何を話すのかって感じだけど話題が尽きず、まるで付き合いはじめの恋人同士のように店が閉まる時間までみっちり喋り倒したのであった。
絵や美術の事に始まり本や音楽、そして演劇についても、AB型同士だったりお互いの実家が超近所だった事もあって話しやすく楽しい時間を過ごしたのだが、これは僕にとってすごく珍しい。
というのも10歳以上離れた、弟よりも年下の世代とはもちろん話す事も多々あるんだけど、世代の違いもあるし共通の文化があっても深さが足りなくてなかなか話し込むまで到らないからだ。まして自分と全く正反対のバックグラウンドの人なら尚更。
特に丸尾末広大好きとか江戸川乱歩や夢野久作、トッド・ブラウニングの『フリークス』etc...そんなエログロ、僕が好きなのは当たり前に見えても津田くんがそれを好きと言うのが何だかすごく不思議で。
クリクリした瞳を動かしながら小動物のように表情豊かに人懐っこくそれらを語る彼を見ながら、この人どこで道を間違えたんだろう?って心配になるほど。(余計なお世話。)
それでもやっぱりディープな年下の友達がいるというのは嬉しい。
おそらく彼が年のわりにシッカリしてて僕が年のわりにシッカリしてないので丁度いいのかもしれない。
でも僕も若い頃によく年上の人達に同じ事を言われて喜ばれていたのでそういうものなのかもしれない。
そしてそれは僕が年を取った証拠なのかもしれない。
年が上であるというだけで人はなぜか無意識に上から目線になるもので、でもどんどん若い人と話が合わなくなってくるのが寂しいのだろうか、出来のいい弟子を持つ師匠のような、妙に誇らしげな気分になってしまう。
僕は若い頃はもっと不謹慎で攻撃的な部分もあったので、これでもいわゆる"丸くなった"と思うのだが、津田くんも例えば前述の泣きながら答案用紙を破ったエピソードを笑い話として語れるようになったという事はやはり丸くなったのだろう、秀才タイプにもそういうのあるんだな~と思った。
彼が言ってた「好きな物はそれぞれでも、嫌いな物が同じだと仲良くなれる」という言葉はパンクスの本質だろうし、僕なんかより彼みたいな人の方がよっぽどパンキッシュなのかもしれない、と、別れ際にニコニコしながら手を振る姿を見て思ったのであった。