映画だったら高校生の頃からカルトムービーと呼ばれる作品や単館上映の物、もしくは古いフランス映画なんかばっかり観ててメジャー路線のアクション超大作なんかは絶対に観ないタイプだったし、わりと近年までそういう趣向が続いていた。
それってもちろん「他人とは違うマニアックな物を好む自分」に酔っている部分もあったとは思うけど、単純にメジャー路線の物に全く興味がなくて食指が動かなかっただけなのと、底辺生まれの底辺育ちなので世の中に対するアンチ精神があるのも否めない。
それがどうしたワケか、特に何らかのキッカケもなく数年前くらいからだろうか?今まで全く観る気もなかったアクション映画や昔は毛嫌いして敬遠してた作品を観てみたりして楽しめるようになってしまったのだ。
もちろん今までのマニア嗜好はそのままあるので幅が広がったというべきなのか。自分の中ではちょっとした革命である。
売れてる物の面白さ、そして売れてる物は大概お金がかかっているので、お金のかかった物の醍醐味を味わうという快楽。
それは先日観た『 マッドマックス 怒りのデス・ロード 』で一気に頂点に達した気がする。
とはいえマッドマックスはかなりフリーキーだし(実際リアルフリークスも出演、タフ過ぎるヒロイン役のシャーリーズ・セロンも片腕なくて義手の設定、しかも坊主頭で萌え過ぎる!)、偏った作品だとは思うけどそれでも気が遠くなるほど予算もかかっているだろうし、ほぼ2時間全編カーアクションの山あり谷なしのジェットコースタームービー、そんな男気しか溢れない映画なんて昔の自分だったらフンッ!と鼻を鳴らし見向きもしなかったであろう。(ちなみに古いマッドマックスシリーズの観賞もメジャー作品を観るようになった革命後の出来事なのでここ数年内。)
金がかかっている物が必ずしも面白いとは限らないのでマッドマックスにおいてはシナリオや演出面、細部まで凝りに凝ったデザインなど諸々の功績はもちろんなのだが、やはりそこにある圧倒的メジャー感が僕にとっては新鮮で。
それは最近聴いている音楽にも当てはまっていて、それこそ王道J-POPなんて聴く気も起こらなかったのが、いまや宇多田ヒカルいいなぁ~♪なんてなっているので人生どうなるかわからないものである。
売れている物=多くの人が良いと思っている、と解釈して間違いないと思うのだが、中には実質はショボくても広告費を莫大にかけてさも売れているかのように偽装し、それによってもともと「ただ売れている物が好きなだけの層」が大量に釣れ、結果実際に売れる事になるという現象もあってなかなか興味深い。
あまり自分の周りにそういう人がいないのでよくは解らないが、世の中には本当に「ただ売れている物が好きなだけの層」が相当数いるという事実。
例えばルイ・ヴィトンのモノグラムの財布が以前流行ったけれど、あのデザインが本当に好きで使っている人って少なくて、あとの大多数は「皆が持っているから」という理由で所持しているという。
それって一体何なのか?と考えるとけっきょくは安心感なんだなって思う。個性的でありたいと思っていても輪から外れるのは怖いから皆と同じようにしているというその安心感がその物自体を自分にとって「イイ物」だと思わせる事(錯覚だとしても)になるのだろうか。
売れる歌というのは歌詞に共感出来るからという理由が多い事を考えても、自分と同じ感性=安心感という公式も成り立つ。
しかし僕は別に安心感を求めてマッドマックスを観に行ったワケではなく、むしろ逆の感情を喚起されたかったのだが、結果やはり安定して面白過ぎるという安堵はあったので、コレも安心感に入るのであろうか。
とにかく人は独りでは生きていけないので群れあって安心して暮らす事は非常に大切であり、人々のEXILEや浜崎あゆみへの信捧も生きるための術であり(僕はまだそのレベルにまで達していないので日本で生きづらいのであろう)、より多くの共感を得られる物にお金はかけられ、売れ筋というモンスターとなって時代を動かす。
そんなモンスターと昔はなぜか戦っていたものだけど、最近はモンスターとお友達になる方法が解ってきたので一緒に楽しく遊んでいます。
エンターテイメントとはもともと他人に対して開放されたものであり、こちらも心を広く開ければそれなりに楽しめるものなのだ。
しかし僕の心はまだまだ狭い。これから先、全てを受け入れ楽しめる仙人のように早くなりたいです。