2016/12/05

人間断捨離

 人間関係というものは利益や契約を伴うものを除けばあとはただの情で繋がっているに過ぎず、それは友人であれ親子であれ、人間の感情=最も変わりやすく信用のおけないものをなぜだか担保にして築いている関係である。
例え神に愛を誓って結婚という契約をしても愛情がなくなって憎しみにでも変わればその契約は破棄され、金の切れ目が縁の切れ目とも言うように利益がなくなれば必要がなくなる人間関係だってある。

 要するに人間関係とはとても気紛れで、けっきょく気分次第でどうにでもなるものなのだ。

 恩を受けても忘れる人間が多い中、仇で返すなんて逆に律儀な方だろう。
だから他人に親切にしても見返りがあるとは限らないし、愛しても愛されるとは限らない。
ならばもっと利己的に、自分の利益だけを考えて他人を利用し搾取し支配する方がよっぽど理に適っている。
だから資本主義社会で成功している人々は庶民をコントロールして支配し、共益やそれこそ命だって何とも思わず、むしろそこから毟り取ったもので自分の利益を作り出す才能に長けており、それは同時に生物として生存競争で生き残る本能でもある。狼が羊を食べる時に羊の事など考えないのと一緒で、本能とはいつも利己的だからだ。

 さて、そんな狼階級に居られれば別だけど、か弱い一般庶民である僕が利己に基づいた人間関係を築こうとしてもどうしても感情や今まで受けてきた教育、道徳観念という余計なものに邪魔をされてなかなかドライに相手を利用する事が出来ないし、搾取するどころかされまくって搾りカスとなっている有り様。
…と同時に、地球のどこかで幼い子供達が餓死していようが平気で豚のように飲み食い出来る程度の図太さも持ち合わせている。

 遠い知らない人間の不幸には無関心でも、近くて顔や名前を知るだけでそこには利己という本能を邪魔するほどの感情が生まれ、人はそれに左右されながら今日も好きだ嫌いだと繰り返しながら暮らしている。

 たまに自分や他人の持つ感情が煩わしくなる。一喜一憂する事や駆け引きや余計な気遣いなんかに疲れたりシラケてしまって、だから僕は物が好きだ。
服や本やデータ化したのに捨てられないCD、増える一方の文房具や日用品。同じ物がいくつもあったりもする。
物は喋らないし、物は裏切らない。物は勝手に僕を理想化して勝手に幻滅しないし、物は僕を使い捨てにしない。物は僕に優しくないし、物は僕を救おうとしない。
物と僕は対等な関係で、そこには情も恩も仇もない。
部屋に大量に溢れかえった物言わぬ物達に囲まれて暮らすのはなんて快適なのだろう。

 人間とは大違い。

 もっとみんなから飽きられて見棄てられて必要のない人間としてとっとと関係を切られてスッキリしたいです。