2018/01/17

Back To Basics

 新年が明け、誕生日も迎えると、嫌でも今年の抱負のような物を考えてしまう。考えたところでどうせ一年間それを貫きもせず、すぐに忘れてしまうのだが。

 今年は頑張らない事にした。

 よく人前に出る活動をしているので精力的な人間だと思われがちなのだが、実際はわりと地味で大人しい部類だし、何か表現活動をする時というのは大概サービス精神からで、やるからにはそれなりに完成度高くと思ってしまうタチなので、それには諸々のエネルギーが必要になり、体力と精神力を振り絞らなければいけない。

 その力が年齢とともにどんどん衰退しているので何かやるにもけっこうしんどいし、サービス精神はいまだ旺盛なものの、それに自分の体が付いていけない状態。

 それに頑張っても報われないから。

 基本がサービス精神なので報われなくてもよいのだが、それでもやっぱりそれなりの結果が伴わないとやり甲斐がないし、長年やっている事なら結果が上昇しないと意味がない。
もちろん自分の才能なり力量なりが肝心だけど、努力を重ねても結果に選ばれない限りはそれは無に等しいし、その場を頑張ってその場の対価をもらってそこで関係がまたリセットされてしまうその繰り返しにもう飽きてしまった。

 それに僕の望む結果はいつも僕じゃない人の物になる。
それはその人達が僕より美しく、僕より恵まれた環境で育って生活にも追われず好きな事が出来て、苦労もせずに結果を得られる輝かしい人々だから。
これはもう身分の違いみたいなもんで自分ではどうしようもないし、稀にそれを覆すほどのエネルギーを持っている人もいるけど僕にはそれもないので、ずーっとそういう人達の輝きを眺めながらそういう人達の足下で努力をして、そしてそういう人達にその努力を吸い取られ続ける。
資本主義と全く同じ仕組みにルックスの良し悪しも加算されて更なるヒエラルキーが産まれて格差は拡がり続ける。

 そのピラミッドの最下層で苦しみ続けるよりは、もういい加減そこから脱してしまおう。不細工は地味に生きよう。

 そんな想いからか、最近は聴く音楽もどんどん地味になり古くなって、もはやステレオではなくモノラル時代の音源の方が耳に心地好いし、映画も昔の大映の物ばっかで溝口健二やら増村保造やら川島雄三やらの緒監督の美学に唸っている。
どれも大体1960年代、日本で言えば高度経済成長期で、作られる物も非常に人間臭くて、現代のヒエラルキーの頂点である"キラキラ"ではなくもっと汗ばんだ"ギラギラ"があるので親近感が湧くのだろうか。
その時代に生き、良い物を創ってきた彼らも、今では若者から「老害」と呼ばれてしまうのだが。

 かつての経済成長の裏で取り残された貧しいバラックのように、こっそりと人目を憚って、諦めのループの中で自分を見つめる年にしたいです。