人工衛星がなんとなく好きだ。
通信や気象観測や軍事といったそれぞれの目的を持って、遠心力と引力の狭間という絶妙な距離感で地球の周りをグルグルと回っている不思議な存在。
1957年のソビエト連邦のスプートニク1号をはじめとして幾千もの衛星が打ち上げられ人工天体として循環している。
更には古くなったり故障したりして本来の目的をもう果たしていない物や、宇宙に打ち上げられた際に最後に切り離されたロケットのパーツ、その他の破片や残骸、宇宙飛行士が作業中に落としてしまった工具など、いわゆるスペースデブリと呼ばれる宇宙ゴミも含めると、おびただしい数の人工物が時にはそれ同士が衝突しあったり爆発したりしながら周回しているというのはなんと賑やかな事だろうか。
宇宙という神秘的な空間ですらもゴチャゴチャと生活感を与えてしまう人間の業の深さも考え物だし、実際に宇宙開発が進むと同時に宇宙ゴミもどんどん増えているのでその対策に追われているらしいけど、地球でただダラダラ暮らしている身からすると宇宙のそんな出来事も想像を巡らすとなんだか愉快に思えてしまう。
しかしいまや人工衛星も国や政府単位ではなく個人の趣味で打ち上げたりしている団体もあるらしく、そう遠くない将来には、一人が一つ、自分の通信衛星くらいは持つ時代が来るのではなかろうか。
そこまではいかなくても、現時点でも携帯電話のGPSだって人工衛星との通信によるシステムなのだし、もっと人工衛星を身近に感じる日が来るかもしれない。
愛称を付けられてそれぞれの軌道でそれぞれの目的のために働く人工衛星達。
高度を保てず流れ星となって落下する者や、無事役目を終えて地上に回収される者もあるけれど、人工衛星達は自分達の任務が終わると推進システムの最後の燃料を振り絞り、墓場軌道と呼ばれる、今現在活躍中の衛星達や宇宙ゴミとぶつからない更なる高度の軌道へ自力で上昇して、そこで、死ぬ。
墓場軌道にはそんな死んだ人工衛星達がただただひっそりと永遠に浮かんでいるという。
美しい死、美しいゴミ。
少なくとも僕よりは美しい。だから好きなのかな。