2020/07/27

渡辺課長への弔辞

 渡辺課長

 僕は渡辺課長のような年齢でもなく、役職に就くような仕事もしていないし、大病を患っているわけでもなく、子供を育てた経験もありませんが、それでも渡辺課長が飲み屋で小説家に打ち明けたように、ひと思いに死のうとしたけど死ねなかった経験があります。僕の場合は渡辺課長のように社会の中で忙殺されて生きる意味を見失っていたのとは逆に、社会そのもの、人間そのものに馴染めず死を意識したのですが、やはり誰にも相談出来ず、それでも結局は死に対する恐怖に打ち勝てず精神病院に入院して何とか騙し騙し生きてしまっています。でもそれは渡辺課長のように自分の意志で何かを成し遂げてその結果や意志が他人に受け継がれるという、本当の意味での「生きる」ではなく、ただ息をして物を食べて、たまに楽しいと思う事を気休めにやっているような、物質単位での生です。渡辺課長が純粋に心を奪われた、事務員の若い女の子の天真爛漫さ、奔放さ、そして何よりキラキラしている生命力には僕も憧れがあります。電車の中などで遭遇する健康的な体育会系の学生達が楽しく喋っているのを見たりする度に、どうして自分はこうではないのだろうかと考えてはいつもそこに執着が生まれます。なので渡辺課長がその女の子にそれはなぜなのかと詰め寄った気持ちが痛いほど解りました。そしてそこには特に答えがない事も。でも渡辺課長はそこから自分で意味を発見して生まれ変わりました。それ以前の小説家との不道徳的な遊びの数々、すなわち悪徳からは見出せなかった生き甲斐が、仕事を通して他人に奉仕するという美徳によって目覚めたのです。その生まれ変わりを祝福するようにちょうどハッピーバースデーの歌が流れ、渡辺課長は颯爽とその場を去って行きました。それからの渡辺課長の行いは周知の通りですが、僕はその渡辺課長の姿がとても羨ましく感じます。本当の意味での「生きる」というのはとても難しい事です。頭では解っていたり、理想としては持っていても、目の前の事に追われたり、またそれを言い訳にしたりして、なかなか踏み出せなかったりします。それは日本社会の“出る杭は打つ”という体制もせいも充分あるとは思うけど、結局は自分の意志次第だし、でもそれこそ死を目前にしないと気付けず、やろうとも思わない大変な事だったりもします。渡辺課長が事務員の女の子のストッキングが破れているのを見て何気なく新しい物を買ってあげたらひどく喜ばれた、あの出来事もとても大きかったのでしょう。困った人に何かしてあげてその人が喜ぶ姿を見るのが自分の喜びになるという事、それは昔も今も根源的にはある事だけど、人間というのはとても利己的だからそこまでの喜びに至れない、もしくがそれが喜びになる事も知らないまま過ごしています。かくいう僕も、人生折り返した今でも、自分が何のために生きているのか、自分には何が出来るのか、何が残せるのか全く判らないままです。渡辺課長のように他人のために奉仕をするという精神もいまいち持っていなくて、それが自分の「生きる」という事になるかも不明ですが、自分にとっての「生きる」とは何であるのかを本当に死ぬまでにはせめて見つけたいなと思います。それが例え形に残らなくてもいい、意志を他人に継承されなくてもいい、渡辺課長ほど立派でなくてもいいから自分の存在意義を見つけたいです。最後に、とても印象に残った、渡辺課長の瞳の光について述べたいと思います。一つは、小説家と一緒に遊び倒した最後に車から降りて暗がりの中で見せた、企んでいるような、諦めたようなニヒルな笑みと共に光った瞳です。暗がりの中で更に帽子で影になった真っ黒の顔に瞳の光だけが浮き上がって、不気味な、悪魔的な印象を与えていました。その時に一緒に居た女性達はすごく下品で退廃的で、後の事務員の若い女の子とはとても対照的でしたし、数々の遊びも渡辺課長には何一つもたらす事なく、絶望の黒だったんだと思います。もう一つは、公園建設現場で渡辺課長が倒れ、地域の婦人会の人々に水をもらい、それを飲んで顔を上げた時の瞳の光です。日差しを受けて真っ白く浮き上がった顔の瞳が本当に綺麗に光っていて、信念と希望に満ちた明るい白でした。人生にも光と影はありますが、それを端的に瞳の光で表現出来るというのは何と凄い事なのかと衝撃を受けました。渡辺課長は決して目立つ人物ではなかったけれど、そても強く、優しく、そして何よりきちんと「生きた」人でした。あなたのようになれるかは僕には自信がありませんが、あなたに出会えて良かったと思っています。



‐以上、黒澤明監督『生きる』に寄せて